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寺院・3

 寺院は生い立ちや機能によって分類できる。

● 天皇家が中心となって建立した勅願寺(官寺)
● 豪族や篤志家が個人的に建てた私寺
● 政府の認可によって庶民が建てた公寺
● 現世利益を中心とした祈願寺
● 学問・出世を中心とした学問寺
● 先祖の供養を主体とした菩提寺

 宣化3年(538)に仏教が日本に伝わったころ、寺院の数は46ヵ寺だった。それが鎌倉時代には約13,000、江戸中期には40~50万という記録が残されている。ただし現在の寺院とは多少異なり、庵・斎・房・軒など寺号をもたない堂だけのところや無住の寺も含まれた数字だったようだ。
 江戸幕府は寺領を安堵し、伽藍の整備を推進したが、僧侶の統制を図るため寺院諸法度が設けられた。寺院諸法度は江戸時代に徳川幕府が仏教教団に対して定めた諸法度の総称だが定まった呼称はなく、文献によっては諸宗寺院法度・諸宗諸本山法度などの呼称が用いられる。
 禅宗の場合、

1.曹洞宗法度 慶長17年(1612)
2.勅許紫衣之法度 慶長18年(1613)
3.五山十刹諸山法度 元和元年(1615) 以下同じ
4.妙心寺法度
5.永平寺法度
6.大徳寺法度
7.総持寺法度

 などの法度が順次発令された。
 五山十刹諸山法度では従来の(鹿苑)僧録・蔭涼職が廃止され、元和5年(1619)、江戸に(金地院)僧録が新設されて崇伝が任命された。当初は新たな僧録によって禅宗全体の統制をはかったが五山派のみにしか影響が及ばなかった。崇伝没後の寛永12年(1635)に設けられた寺社奉行が寺院を取り仕切り、僧録の権限は更に縮小された。基本的には五山派の触頭(寺社奉行から出る命令の伝達や寺社から出る訴訟の取り次ぎにあたった寺)を職掌とした。
 江戸幕府は寛永8年(1631)に新寺の創建を禁止し、翌年以降、各本山に末寺帳の提出を義務づけた。各宗派の寺院を重層的な本山・末寺の関係に置き、無本寺寺院をゼロにして寺院相互の本末関係を固定化した。これを本末制度といい、江戸幕府が仏教教団を統制するために設けた。地方の古刹は形式的に特定の宗派に編入された。幕府は江戸に設置された各宗派の触頭を通じて、自らの意向を宗派の末寺に周知徹底できるようになった。
 寛文4年(1664)に江戸幕府がキリスト教や、宗規を守るために幕府に従わなかった日蓮宗不受不施派を禁制として、信徒に改宗を強制する目的で寺請制度(檀家制度・寺檀制度)が制定された。仏教の檀信徒である証明を寺院から請ける制度で、民衆はいずれかの寺院を菩提寺と定め、檀家となることを義務付けられた。寺院では現在の戸籍にあたる宗門人別帳が作成され、旅行や住居の移動の際には寺請証文が必要とされた。各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという慣習が定まり、寺院は一定の信徒と収入を保証された。
 寺院は檀信徒に教導する責務を負わされ、仏教教団が幕府の統治体制の一翼を担った。僧侶を通じた民衆管理が法制化され、事実上幕府の出先機関の役所と化した。本来の宗教活動はおろそかとなり、汚職の温床にもなった。本末制度との相乗効果により従来の教団活動で中心だった門派・塔頭の機能は低下し、各本山への権限の集中を招いた。他宗派の信徒への布教や新しい寺院の建立は禁止されたため、勢力の拡張が困難になった。寺院は江戸中期をピークに整理された。

テーマ : 日本文化 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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日本人の名前のルーツを探ることで日本の歴史を違う角度から見ることができます。家系図づくりをしている人・一族のルーツの探し方がわからない人・祖先の古いお墓がある人はもちろん、自分の名字・姓・氏の由来を知りたい人、家紋や戸籍謄本(除籍謄本)に興味がある人、先祖が武士か農民か知りたい人、珍名・奇名など珍しい苗字を探している人、明治時代好きの人も読んでみてくださいね。家族や親戚との話のネタにもなります。他人の名字でも起源を調べると面白いことがたくさん出てきますよ。調べ尽くしたら苗字研究家に転職できるかも? 苗字の歴史って楽しいです。異説・新情報がありましたら教えてください。

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