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保谷と田無・3

 横山道は荷車が通えるほどの幅で、道沿いには一軒の家もなく、夕方になると人一人通らなかった。樹齢300~500年ほどの大きな松の平地林が田無地区で最も大きく広がり、土地の人は「クラミヤマ」「谷戸山」と呼んでいた。クラミヤマの奥は真っ暗で大人でも怖くて行けなかったといい、妖怪が出るという噂もあった。昭和20年(1945)ごろまでは狐や野兎が見られ、松の大木の林も残っていた。昭和4年(1929)に東大農場が誘致された際に農場内の横山道は売却され、いまでは分断されている。ところどころに生活道路として鎌倉街道の名とともに残るだけである。
 慶長8年(1603)、江戸城築城のために青梅の成木村・小曽木村で採れる白土(石灰)を運搬する道路として八王子代官大久保石見守長安の下で青梅街道(当時江戸道)が整備された。俵詰めの白土を馬の背に乗せ、青梅~江戸の13里(50km)を箱根ケ崎(東京都西多摩郡瑞穂町大字箱根ケ崎)・田無・中野を宿駅として継送した。この輸送は「将軍御用」だったので幟を立てて堂々と進む行列だった。
 『武蔵田園簿』の末尾には武蔵国道法として主な往還の里程が示され「中野より田無町まで3里3町 道広4間5間、田無町より青梅町まで7里3町 ただし原道比間に原あり、原の間6里 家なし」と原野を通る17世紀の青梅街道の様子が記されている。道の状態はかなり悪かったようで、元禄12年(1699)には中野・田無間に常道をつくる普請が願い出られており、その後もしばしば砂利を入れるなどの整備がされた。道に沿った村々が資金や労力を出しあい、世話人を中心に砂利の確保や人足の手配、作業の監督などを担った。
 所沢街道が交差する交通の要衝ともなったため保谷の人々は青梅街道を中心に村落を形成し、田無宿・柳沢宿などの宿場町として栄えた。少なくとも一部は谷戸・宮山のあたりから青梅街道沿いに出てきたと考えられる。おそらく保谷を開拓した下田氏の一部が宿場町となった田無へ移住したのだろう。
 『保谷市史』通史編によれば、市域に現存する史料で最も古いのは寛永16年(1639)の「武州新座郡下保谷村御検地手帳彦七郎分」である。少なくともこの時点で上・下保谷村が存在していたことがわかる。ただ、それ以前のいつ上・下にわかれたかははっきりしていない。
 成立までの経緯を考察すると、上保谷村の草分けは保谷六苗(保谷・下田・岩崎・中村・野口・桜井)だが、下保谷村の草分けは蓮見・高橋・増田氏らであり、だぶりがない。下保谷は全村が日蓮宗の檀徒だが上保谷は真言宗・曹洞宗で、両村に錯綜がない。村落の構造も、下保谷村は7名が組頭を務めてそのうちの1名が年番交替で名主を務めていたが、上保谷村は3人の相名主(保谷町の弥五左衛門組・中町の伝右衛門組・泉町の半兵衛組)がいてそれぞれが小さな村の機能をもち、本名主を1名おいた。
 両村には異なる面が目立つので、保谷村が上下にわかれたというよりは、もともと別の村だったのが上保谷・下保谷と呼ばれるようになったと考えた方がしっくりくる。下保谷村については隣村の小榑村からの開発によって成立した可能性が高い。題目板碑の分布、下保谷の福泉寺が小榑村の妙福寺の末寺であることなどが根拠としてあげられる。初期検地の実施時期が両村でずれているので、開発の時期も違っていた可能性がある。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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日本人の名前のルーツを探ることで日本の歴史を違う角度から見ることができます。家系図づくりをしている人・一族のルーツの探し方がわからない人・祖先の古いお墓がある人はもちろん、自分の名字・姓・氏の由来を知りたい人、家紋や戸籍謄本(除籍謄本)に興味がある人、先祖が武士か農民か知りたい人、珍名・奇名など珍しい苗字を探している人、明治時代好きの人も読んでみてくださいね。家族や親戚との話のネタにもなります。他人の名字でも起源を調べると面白いことがたくさん出てきますよ。調べ尽くしたら苗字研究家に転職できるかも? 苗字の歴史って楽しいです。異説・新情報がありましたら教えてください。

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