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切敷川・1

 鴻沼川は約10km、流域面積14.5k㎡の一級河川で、荒川水系鴨川の支流である。さいたま市北区に源を発し、ほぼJR埼京線に沿って南へ流れて中浦和駅で南西に向きを変え、さいたま市桜区新開で鴨川に合流する。さいたま市の中心部(大宮・与野・浦和)をほぼ南北に貫いて流れていて、流路は鴨川と芝川の中間に位置する。
 呼び方は地域によって異なる。さいたま市北区では霧敷川、大宮区では霧敷川・切敷川・切引川、中央区では北部で霧敷川、南部に下るにつれ鴻沼川や鴻沼排水路に変わり、南区・桜区では、鴻沼川・鴻沼排水路・高沼排水路などと呼ばれている。呼び方が異なるのは元々切敷川と鴻沼川が別々の河川だったためである。
 切敷川部分の長さは約3.3kmで34基の橋が架かっている。流域一帯はかつて沼地だった。名前の由来は諸説あるが、素戔嗚尊と奇稲田姫命が6人の神々と出雲からやってきて櫛引で一休みし、大宮の高鼻を渡る際、橋がわりにするため柳を切り倒して沼に敷いたことから切敷と呼ばれるようになったと言われている。
 切敷川は鴻沼に流入する河川だった。鴻沼は現在の下落合から鹿手袋(巽橋からたがい橋の範囲)にかけてあった南北に細長い沼で、幅が100~400m、長さが4km、約75haに渡って広がっていた。さいたま市内の見沼(さいたま市~川口市)・伝右衛門沼に次ぐ大きさだったと言われている。沼の生誕は不明だが、江戸時代中期に周辺17ヵ村(小村田・与野町・鈴谷・上峰・千駄・西蓮寺・山久保・中島・元宿・町谷・西堀・道場・新開・鹿手袋村・関・四ツ谷・田島)の農業用のため池として使われていた。
 現在では「高沼」と表記しているものも多いが、もともとは「鴻沼」と書いた。鴻沼は鸛や鷺などが飛来することから名付けられたと言われている。「鴻」という字は画数が多く難しいため、古くから「高」に変えて高沼と書かれ、後に「たかぬま」とも呼ばれた。農民の文書ではもっぱら「高」の字がつかわれた。いまでも鴻沼川に鴻沼橋・高沼橋が架かっている。
 享保13年(1728)、8代将軍徳川吉宗の命令で井沢弥惣兵衛為永が新田開発のために鴻沼周辺を調査した。井沢弥惣兵衛は江戸時代の治水家で、紀伊国那賀郡溝ノ口村(和歌山県海南市野上新)の豪農の出身である。武蔵国の見沼干拓・見沼代用水開削・多摩川改修などに尽力した。
 井沢弥惣兵衛は享保14~15年(1729~1730)に鴻沼の干拓を開始した。工事は用水路を開き排水路を設ける「紀州流」で行われた。まず北袋(さいたま市大宮区北袋町)の見沼代用水西縁と鴻沼の間の台地を切り開き、鴻沼用水路をつくって取水した。鴻沼用水路は南西に流れて中央区下落合(与野本町駅東)で東縁と西縁の二手にわけた。東縁は鴻沼東岸、西縁は鴻沼西岸の台地に沿って南下させ、周辺の水田を潤した。西縁には切敷川を合流させた。東縁は南区鹿手袋で西へ流路を変えて中浦和駅下を通過し、関で鴻沼川に合流する。西縁は鴻沼川を渡って西側を並行して南下し、東縁合流地点より30m下流の桜区西堀で鴻沼川に合流する。両縁をあわせた総延長は約10kmだった。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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日本人の名前のルーツを探ることで日本の歴史を違う角度から見ることができます。家系図づくりをしている人・一族のルーツの探し方がわからない人・祖先の古いお墓がある人はもちろん、自分の名字・姓・氏の由来を知りたい人、家紋や戸籍謄本(除籍謄本)に興味がある人、先祖が武士か農民か知りたい人、珍名・奇名など珍しい苗字を探している人、明治時代好きの人も読んでみてくださいね。家族や親戚との話のネタにもなります。他人の名字でも起源を調べると面白いことがたくさん出てきますよ。調べ尽くしたら苗字研究家に転職できるかも? 苗字の歴史って楽しいです。異説・新情報がありましたら教えてください。

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