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旧大宮市桜木町・1

 明治2年(1869)3月10日に大宮県が置かれ、大宮は祭政の中心地として脚光を浴びたが、11月2日には浦和県に改称して県庁は浦和に移された。大宮の政治・経済はともに衰退する兆しが見られた。
 明治16年(1883)に高崎線の上野~熊谷間が開通した際、県内には浦和・上尾・鴻巣・熊谷の4駅が設置されただけで大宮には駅がつくられなかった。大宮宿は明治維新以後衰退して鉄道開業時に243戸しかなかったのと、大宮に駅をつくると駅間が短くなるのが理由だった。当時の機関車は牽引力が低かったため短い間隔で駅を設置しないのが基本だった。
 白井助七(後の大宮町長)ら地元有志は町のこれ以上の衰退を危惧して、駅の敷地のために土地を提供すると提示して、誘致運動をはじめた。
 上野駅から青森駅へ向かう現在の東北本線が建設される際に、高崎線のどこから分岐させるかについて浦和・大宮・熊谷の3案が出た。浦和案は経由する岩槻の住民が鉄道忌避を起こした。アメリカ人技師のクロフォードは宇都宮以遠への最短経路となる大宮経由での建設を推した。熊谷案は当時最大の輸出品目だった繊維産業の中心地である桐生・足利を経由するなどの理由で具体的な検討がされた。最終的に工部省の工部大輔だった井上勝の決断によって大宮案が採用された。
 明治18年(1885)3月16日、高崎線との分岐点に大宮駅が設置され、7月16日に後の東北本線となる栗橋駅までの路線が分岐開業した。
 明治22年(1889)4月1日、町村制施行に伴い北足立郡大宮宿・土手宿・上天沼村・下天沼村・高鼻村が合併し大宮町となった。明治27年(1894)には白井助七が提供した土地を基に日本鉄道株式会社大宮工場(JR大宮総合車両センター)が設けられ、操業を開始した。白井の尽力を記念して、現在でもさいたま市民会館おおみやに隣接する山丸公園には白井を顕彰する記念碑と蒸気機関車C12 29号機が置かれ、大宮ソニックシティ前の鐘塚公園には白井の胸像が設置されている。
 日本鉄道大宮工場が大宮駅の北側に開業したため、工場周辺には工員や関係者、鉄道職員が暮らすようになった。現在の桜木町3丁目付近に国鉄が職員住宅・病院・寮などの厚生施設を建設し、国鉄の企業城下町となった。
 近隣住民の長男は家業の農業を継いで次男以下が大宮工場に勤務するケースが珍しくなく、生活は地域内でほぼ完結していた。一方、浦和住民は昔から駅があったため東京への通勤が多かった。結果、交流が乏しくなったことが大宮・浦和の不仲の遠因となっている。
 駅の開設によって周辺は整備され、東口に商店街も形成されて生産物や生活必需品の交易も盛んになった。駅の南は仲町の名の通りもともと宿場町の中心だったので、駅ができてからも南側が繁華街になった(現在の南銀座周辺)。現在の大宮銀座通りは「川越新道」と呼ばれていた。
 明治34年(1901)に長野県川岸村(現・岡谷市)の片倉組(片倉工業)、明治40年(1907)に長野県須坂町の山丸組(山丸製糸)、岡谷製糸大宮館といった長野県系の器械製糸工場がこの付近に進出したため、中山道との間に繊維関連の豪商が集まった。貨物の引きこみ線を自分たちの敷地に伸ばし、国鉄で長野や北関東から絹の材料を仕入れ、大宮で加工し、貿易地横浜へ出荷した。同時に製糸・衣料の仲買人や卸売業者も中山道沿いに軒を連ねた。大宮は「鉄道と製糸の町」として活況を呈した。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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日本人の名前のルーツを探ることで日本の歴史を違う角度から見ることができます。家系図づくりをしている人・一族のルーツの探し方がわからない人・祖先の古いお墓がある人はもちろん、自分の名字・姓・氏の由来を知りたい人、家紋や戸籍謄本(除籍謄本)に興味がある人、先祖が武士か農民か知りたい人、珍名・奇名など珍しい苗字を探している人、明治時代好きの人も読んでみてくださいね。家族や親戚との話のネタにもなります。他人の名字でも起源を調べると面白いことがたくさん出てきますよ。調べ尽くしたら苗字研究家に転職できるかも? 苗字の歴史って楽しいです。異説・新情報がありましたら教えてください。

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