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大宮・1

 大宮の地名は武蔵国一の宮・氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区高鼻町4-1)を「大いなる宮居」とあがめたことに始まる。氷川神社は平安時代の「延喜式神名帳」に記載されている格式の高い古社で、社伝によれば孝昭3年(紀元前473)創建という。神官・物部惟臣が天保4年(1833)に記した「氷川神社縁起」によれば社名の起源は出雲国簸川の川上にある杵築神社を勧請したため、川の名をとって「ひかわ」としたとある。一方で農耕を営む古代人が古来神社境内の清水が湧く沼(見沼)を神池として神聖視し守護神としたが、流水が氷結するところから氷川としたともいわれる。成務天皇のとき(131~190)、夭邪志国造になった兄多毛比命が出雲族をひきつれて武蔵国に移住し、祖神を祀って氏神としたらしい。しかし永禄5年(1562)の上杉と北条の争いに巻きこまれて古い記録はことごとく消失したため、詳しいことは不明である。
 祭神は素盞嗚尊・大己貴命・稲田姫命の3神だが、創建時は素盞嗚尊一柱だった。この地域に住む豪族が稲作栽培を災害から守る地主神として祀ったようだ。素戔嗚尊の一族が日の神・水の神として祀られていること、旧暦6月15・16日を例大祭としていることが、春先の用水の確保や稲などの農作物につく疫病を除こうとした信仰を暗示している。
 「氷川神社縁起」には「昔、素戔嗚尊が天より降り給うとき、諸州を巡って東国の不毛の地を大いに心配なされて日の神の御生魂を招請し、小麦の茎を御畳とし、小麦の供御、一夜作りの神醴、きすのしら干し、茅の折端を添え、神楽を奏して、そこに神がいますかのようにして仕え、なぐさめ給う。これが当宮の初めなり」とある。
 神亀年間(724~749)に氷川神社は「武蔵一の宮」と定められた。延喜式内社では武蔵国に2つある名神大社の1社として特別扱いを受けた(もう1社は金佐奈神社)が、六所宮奉祀では三の宮に位置づけられている(一の宮は小野神社、二の宮は小河神社)。武蔵一の宮は国の一の宮で、神祇関係で朝廷における神社行政上から設置されたが、六所宮は国司が国内の神社行政のために定めたものである。国の一の宮のほうが社格が上位であることはいうまでもない。旧社格も氷川神社は官幣大社、小野神社は郷社である。律令以来の政府は氷川神社を武蔵一の宮として尊重し、奉斎してきた旧武蔵国造は神官になったと伝えられている。
氷川神社の造営は昔から公費であると伝えられているが、治承4年(1180)に源頼朝が社殿を造営したという口碑があり、文禄5年(1596)には徳川家康が関東郡代伊奈忠次に命じて社殿を造営し、寛文7年(1667)には阿部豊後守が奉行となって社殿を造営したことが棟札に残っている。明治17年(1884)に神社の周囲の一部が県内初の県営公園となった。
 同名の氷川神社は武蔵国内に200余社を数える。氷川神社を氏神とする人々が各地に移り、土地を開拓して定住し、氏神だった氷川神社を勧請して祀ったという。大部分の氷川神社は元荒川の古い河道と入間川の間に挟まれた地域に集中している。律令以前の武蔵国造の勢力基盤が元荒川右岸の足立郡、左岸の埼玉郡をあわせた広大な地域と考えられているのと重なる。おそらく村々の神として勧請したのだろう。
 大宮は門前町として発祥した。門前町の名物は「氷川だんご」だった。
 氷川神社へ向かって18町(約2km)ほどつづく今日の欅並木の参道は、寛永5年(1628)一の鳥居から左手に延びて北進する道がにつくられるまでは中山道だった。街道が神域を通るのは畏れ多いとの理由から、新道は関東郡代・伊奈忠次(武蔵小室藩藩主)の指揮で普請された。神社の門前にあった町家42軒を新道の両側に移転させ、宿場町として興されたのが大宮宿である。今日ある欅並木の参道は、江戸期には松並木、太平洋戦争の前までは杉並木だったという。
 以来大宮は氷川神社の門前町から中山道の宿場町として栄えた。天保14年(1843)の道中奉行の記録によると大宮宿は9町30間(約1.04km)、宿内人口1,508人(男679人、女829人)、宿内家数319軒だった。本陣は1軒で宮町1丁目にあり、脇本陣は9軒で中山道の宿場としては最多だった。他に問屋場4軒、旅籠25軒、紀州鷹場本陣(北澤家)1軒などがあった。毎月の5と10の日には六斎市が立てられていた(五十の市)。
 宿場は当初、本村(後の高鼻村、さらに宮町)・北原村・右衛門八分(後の堀之内村)・甚之丞新田(後の寿能村、さらに大門町)・新宿中町・新宿下町・吉鋪新田の7組で構成され、大宮宿と総称した。後に宮町・大門町・仲町・下町・吉敷町の5町構成に変えながら集約・発展を見せた。
 紀州鷹場本陣は寿能城家老・北澤宮内の子孫、北澤次郎左衛門家の屋敷だった。甚之丞新田の開拓者であり、紀州鷹場本陣は大宮宿の草分けだった。紀州候の鳥見役として御鷹場本陣と宿駅の脇本陣を兼ねていた。北澤家からは後世、日本近代漫画の創始者と評価される北澤楽天が輩出している。
 安永4年(1775)2月1日に北澤家の建物から出火し全焼した。北澤家の失火に始まる大火(北澤大火)は大宮宿の85軒を焼き、救助活動が7日に及ぶほどの惨事となった。言い伝えによれば、この事態に際して勘定奉行・道中奉行だった安藤弾正少弼惟要(在位:1761-1782)は被災者に幕府の御用米と御用金を施し、大いに救った。しかし幕府の許可を取らない措置だったため、責任を問われて切腹した。安藤惟要に救われて死を悼んだ人々は、その徳を後世に伝えるため、墓碑を建てて祀ったという。碑は「安藤弾正少弼惟要」と刻まれた小さなものだが、交差点の脇にいまも見ることができる(大宮区吉敷町1-103)。ただし、史実の安藤惟要は老齢によって天明8年(1788)に職を辞すまで奉行職を全うし、寛政4年(1792)6月19日、78歳で亡くなっている。現在北澤家のあった場所は高島屋大宮店(大宮駅前)になっており、屋上に北澤稲荷を残している。
 氷川神社参道からわかれて中山道を北に進むと最初にある大きな交差点が吉敷町交差点である。大宮宿の南の入口だったこの場所には東西に流れる排水路があり、長さ7尺(約212cm)、幅1間4尺(約303cm)の石橋が架かっていた。この橋の名は「安藤橋」といい、安藤惟要にちなんだものである。安藤橋はいまはなく、小さな石碑が残されている。さいたま市立博物館には欄干の北側にあって橋の名が刻まれていた親柱が保存されている。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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日本人の名前のルーツを探ることで日本の歴史を違う角度から見ることができます。家系図づくりをしている人・一族のルーツの探し方がわからない人・祖先の古いお墓がある人はもちろん、自分の名字・姓・氏の由来を知りたい人、家紋や戸籍謄本(除籍謄本)に興味がある人、先祖が武士か農民か知りたい人、珍名・奇名など珍しい苗字を探している人、明治時代好きの人も読んでみてくださいね。家族や親戚との話のネタにもなります。他人の名字でも起源を調べると面白いことがたくさん出てきますよ。調べ尽くしたら苗字研究家に転職できるかも? 苗字の歴史って楽しいです。異説・新情報がありましたら教えてください。

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