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船連の人々・1

 文武4年(700)8月22日、巡察使の奏状により、善政を褒められて因幡守の船連秦勝が30戸を賜った。封戸という古代貴族への封禄制度によるもので、特定数の公民の戸が支給された。大化2年(646)の「改新の詔」で初めて登場し、白鳳5年(676)以後の改変を経て大宝・養老両令で整備された。令制では封戸のある令制国の国司が封物の徴収にあたり、租の半分と庸調の全部が封主のもとに納入されることになっていた。
 船連秦勝は慶雲2年(705)12月27日に従五位下を授けられ、霊亀2年(716)4月27日には出雲守に任じられている。

 船連大魚は南河内の丹比郡に勢力を張っていた文章博士の一人である。養老5年(721)1月23日、詔により公務の終了後、東宮(のちの聖武天皇)に仕えて相手となるよう命じられた。養老7年(723)1月10日には従五位下に任じられた。藤原不比等と親しかったようで、『日本書紀』の撰述に関わった可能性もあるという。

 『続日本紀』天平勝宝6年(754)11月紀には遣唐留学生として帰国した船連夫子が出家を理由に冠位を辞退したという記述が見られる。

   辛未、大唐学問生無位船連夫子授外従五位下。辞而不受。以出家故也。

 天平宝字2年(758)8月に延慶という僧が同じく冠位を辞すという記載が見られる。

   辛丑、外従五位下僧延慶、以形異於俗、辞其爵位。詔許之。

 「以形異於俗」という辞退の理由は「自分が僧であるから」という意味で、夫子の辞退理由と同じである。延慶の出自は不詳だが『日本古代の貴族と地方豪族』では夫子と延慶は同一人物と推定している。
 『唐大和上東征伝』によれば延慶は天平勝宝5年(753)12月26日、唐から渡来した鑑真を大宰府に案内した。天平勝宝6年(754)鑑真が入京した際にはおさ訳語(通訳)をつとめた。正倉院文書によれば、天平勝宝7歳(755)に東大寺写経所へ「華厳経」を、天平勝宝8歳(756)には「摩登伽経」を貸し出している。天平宝字2年(758)僧であることを理由に外従五位下の爵位を辞したが、勅命により位禄・位田は没収されなかった。
 「藤氏家伝」下巻の「武智麻呂伝」は延慶の撰とされている。

 天平宝字8年(764)9月3日、船連腰佩は外従五位下となり、25日には越後介に任じられている。

 船連住麻呂は宝亀10年(779)1月23日に外従五位下となり、宝亀11年(780)3月17日には官奴正に任じられた。官奴正とは官奴司の長官である。官奴司とは宮内省被官の官司で、官奴婢(官用奴隷賤民)の管理・名簿作成・使役を担当した。定員は1人だった。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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日本人の名前のルーツを探ることで日本の歴史を違う角度から見ることができます。家系図づくりをしている人・一族のルーツの探し方がわからない人・祖先の古いお墓がある人はもちろん、自分の名字・姓・氏の由来を知りたい人、家紋や戸籍謄本(除籍謄本)に興味がある人、先祖が武士か農民か知りたい人、珍名・奇名など珍しい苗字を探している人、明治時代好きの人も読んでみてくださいね。家族や親戚との話のネタにもなります。他人の名字でも起源を調べると面白いことがたくさん出てきますよ。調べ尽くしたら苗字研究家に転職できるかも? 苗字の歴史って楽しいです。異説・新情報がありましたら教えてください。

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