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船氏の人々・2

 7世紀前半は蘇我氏全盛の時代だったが、皇極2年(643)に一族の雄・入鹿が山背大兄王一族を滅ぼした。中臣鎌子(後の藤原鎌足)を味方につけた中大兄皇子は皇極4年(645)6月12日に宮中で蘇我入鹿を殺害し、翌13日には蘇我蝦夷が自害した。乙巳の変である。
 『日本書紀』によれば、蝦夷は「ことごとくに『天皇記』『国記』・珍宝を焼」こうとしたが、船史恵尺が燃え盛る火中から危険を冒して『国記』だけを取りだし、天皇にではなく中大兄皇子に奉った。恵尺は船史龍の子とされている。
 『天皇記』『国記』とは推古28年(620)に聖徳太子と蘇我馬子が編纂して成立したとされる書物である。『天皇記』は帝皇日継・帝紀とほぼ同じ内容の天皇家系譜、『国記』は古事記・日本書紀以前の歴史書と推定される。『日本書紀』推古28年の是歳条に「皇太子・嶋大臣共にはか議りて、『天皇記』及び『国記』、臣連伴造国造百八十部併せて公民等の本記を録す」とある。
 『天皇記』は蘇我蝦夷の邸宅の焼き討ちで焼失したといわれる。『国記』も現存していない。平成17年(2005)11月13日にあまかしのおか甘樫丘とうろく東麓遺跡(奈良県高市郡明日香村)で『日本書紀』の記述を裏付ける蘇我入鹿の邸宅跡が発見され、今後の発掘しだいでは『天皇記』『国記』の一部が発見される可能性があると期待されている。
 船史は蘇我稲目から史の姓を下賜されたこともあり、蘇我氏を支える技術者集団の一部だったと思われる。つまり蘇我氏の屋敷内、あるいはごく近くで生活していたのだろう。だからこそ『国記』などの書物が蘇我氏の宮殿のどこに置かれていたかを知ることができたに違いない。
 船史が蘇我氏の内情に通じる秘書官のような存在だったと仮定するなら、持ちだせた資料がなぜ『国記』だけだったのか、『天皇記』はなぜ一緒に持ちだせなかったのか、という疑問も生まれる。一部族であり、天皇の一臣下だったはずの蘇我氏の邸宅になぜ『天皇記』のような重要書類が保管されていたのかという根本的な疑問もある。
 穿った見方をすれば『天皇記』には中大兄皇子たちにとって不都合な内容があったのかもしれない。『国記』だったから天皇ではなく敢えて中大兄皇子に奉ったのだと『日本書紀』は言いたかったのかもしれない。これらの表現からは蘇我氏排除の計画が中大兄皇子を中心にして周到に練り上げられていたことを想像させる。たまたま『国記』だけが持ちだされたわけではなかったのだろう。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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日本人の名前のルーツを探ることで日本の歴史を違う角度から見ることができます。家系図づくりをしている人・一族のルーツの探し方がわからない人・祖先の古いお墓がある人はもちろん、自分の名字・姓・氏の由来を知りたい人、家紋や戸籍謄本(除籍謄本)に興味がある人、先祖が武士か農民か知りたい人、珍名・奇名など珍しい苗字を探している人、明治時代好きの人も読んでみてくださいね。家族や親戚との話のネタにもなります。他人の名字でも起源を調べると面白いことがたくさん出てきますよ。調べ尽くしたら苗字研究家に転職できるかも? 苗字の歴史って楽しいです。異説・新情報がありましたら教えてください。

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