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早舩氏・1

 船氏がどのようにして早舩氏になり、いつごろ熊野へ移り住んだのかは不明である。『中野の文化財No.3 まつりと講』によれば、早舩一族は造船技術に優れていたので「早舩」の名をつけられたとある。のちに相模国を経て武蔵国に移住したと伝えられている。寿永年間(1185)、源平の戦に早舩兵部という人がいたらしい。
 寿永4年/元暦2年(1185)2月には讃岐国屋島で屋島の戦いが、3月24日には長門国赤間関壇ノ浦で壇ノ浦の戦いがあり、平氏は源氏に敗れた。この戦いで源氏側を率いたのが源義経・梶原景時などである。
 早舩兵部は梶原景時の配下にあって水軍として西海に転戦した。しかし景時の所行振る舞いに「人倫にもとるところあり」と感じ、関係が悪化していった。その後、梶原氏が主君に対し謀反を企てたことに早舩兵部は小宮氏とともに反対したため、梶原氏から追われる身となった。兵部と小宮氏は鎌倉から現在の東京都北区滝野川まで逃れた。
 滝野川付近まで逃げてきたとき、兵部は「観音様の夢を見た」といい、海中を探すと観世音菩薩像が見つかった。兵部はすぐ前を流れる石神井川の北岸際の堂山という場所に小堂をつくり、観世音菩薩像を安置した。これが寿徳寺(東京都北区滝野川4-22-2)創建の始まりとされている。以降、早舩氏は観音像を守り本尊とした。
 しかし『滝野川町誌』732頁(昭和8年(1933)発行)には、「本尊は聖観音なるも作者不明なり、当寺は建保2年(1214)6月中相模国鎌倉の梶原より当時八頭村と呼びし当地へ移建せるものとなりと伝ふる」「天明年間(1781~89)領主と当時の住持柳能との間に争いを生じ其後天保年間(1830~44)再び領主と住僧間に訴訟を生じ公儀を煩したることありし故当寺内に在りし遺物、文献多く所在不明となりし為開基開山其他の詳細不明となり」と記されている。
 八頭村とは旧滝野川町大字滝野川字谷津の仮借かもしれない。寿徳寺周辺にはかつて谷津と呼ばれる集落があった。下十条村と滝野川村の村境に位置し、石神井川左岸に広がる集落だった。現在の王子新道の周辺で、滝野川4丁目と王子本町3丁目一帯にあたる。江戸時代の一時期は谷津村として独立していたが、幕末には北半分が下十条村、南半分が滝野川村とわかれたという。明治に入り新たに境界線が引かれたが、明治21年(1888)の王子新道の開設によって再び境界が分断されてしまったので、今度は王子新道を村の境界線に変更し、ようやく落ち着いた。
 寿徳寺の観音像は谷津観音とも呼ばれる。いずれにしても鎌倉時代初頭前後より観音信仰を軸に寺歴が始まるといえる。
 早舩兵部の末裔である早舩兵吾は武蔵国豊島で水運漁労に従事し、戦国時代になって早舩氏は岩槻城主太田資正の次男梶原政景に仕えた。梶原政景は梶原上野介の未亡人の養子となって梶原源太を称したとされるが、梶原景時などの鎌倉時代の梶原氏との関係は不詳である。父太田資正とともに後北条氏には反感をもっていた人物だった。
 早舩兵吾はあるとき梶原政景に諫言をしたが容れられず、永禄年間(1558~70)に鷺宮へ移って帰農した。後北条氏に近い立場をとっていた太田氏資によって梶原政景が太田資正とともに岩槻城から追放されたのが永禄7年(1564)であるから、早舩氏が鷺宮へ移ったのはそれ以前になる。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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日本人の名前のルーツを探ることで日本の歴史を違う角度から見ることができます。家系図づくりをしている人・一族のルーツの探し方がわからない人・祖先の古いお墓がある人はもちろん、自分の名字・姓・氏の由来を知りたい人、家紋や戸籍謄本(除籍謄本)に興味がある人、先祖が武士か農民か知りたい人、珍名・奇名など珍しい苗字を探している人、明治時代好きの人も読んでみてくださいね。家族や親戚との話のネタにもなります。他人の名字でも起源を調べると面白いことがたくさん出てきますよ。調べ尽くしたら苗字研究家に転職できるかも? 苗字の歴史って楽しいです。異説・新情報がありましたら教えてください。

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