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源左衛門新田・1

 鷺宮の早舩氏と関連があるかどうかは不明だが、埼玉県川口市源左衛門新田や北原台あたりに早舩氏が多く在住している。古くは大塚村という荒廃した地域だったが寛永2年(1625)に武士だった早舩源左衛門が開墾し、源左衛門新田と名づけた。以来、子孫が住みつづけ、いまでも20代目ほどにあたる早舩源一郎が「源左衛門農場」を経営している。
 『新編武蔵風土記稿』によれば文化・文政期(1804~1829)、「民家12軒、東西南北ともに3丁(327m)ばかり、みな畑の地で旱損あり、柿の渋をしぼって江戸へ売っていた」という。『武蔵国郡村誌』によれば明治初期(1878~1882)ごろ、畑は19町2反9畝12歩(19.1ha)で、物産は「米2石5斗、大麦60石、小麦5石、大豆2石、甘藷(サツマイモ)1,800貫目(うち500貫目輸出)、芋1170貫目(内1100貫目輸出)、生姜900貫目輸出、柿340貫目輸出、小倉帯300反輸出」とみえる。地味はよくなく、豆類や麦などに適したところだった。
 『川口市史』上巻によれば、源左衛門新田は寛政4年(1792)まで伊奈氏の知行地だった。寛永期から幕末までの年貢割付状が残っていて、年ごとに増減はあるものの率が高くなっているのがわかる。年貢増徴の傾向が強く現れているのは延宝期(1673~1681)、元禄15年(1702)~享保期(1716~1736)にかけてである。源左衛門新田は延宝6年(1678)と寛保2年(1742)に検地が実施されているので、延宝期の年貢増徴は検地の結果と考えられる。享保年間が年貢徴収のピークとなっているのは享保の改革における年貢増徴策のためと考えられる。年貢の増減が18世紀半ば以降ほとんどなくなっているのは享保20年(1735)から文政11年(1828)まで定免法に基づいて年貢が徴収されたためと思われる。
 源左衛門新田は明治22年(1890)4月1日に旧石神村・旧神戸村など11ヵ村と合併して北足立郡神根村の大字になった。昭和15年(1940)4月1日に神根村は川口市と合併した。昭和24年(1949)ごろは馬、豚を飼い、芝川は船が行き交い、築地の市場に自転車でショウガを運んだという。
 大麦・小麦を主要生産物とする生産形態は昭和30年代(1955~1964)から崩れだし、植木栽培へ転作されていった。昭和30年(1955)ごろまで源左衛門新田では植木を生業としていた家はなく、川口市安行の植木農家の栽培技術を見様見真似で学んでいったという。この時代には食糧事情が好転して麦の需要が減少し、反面植木の需要が鰻上りに増大していった。源左衛門新田の農家でも植木の売れ行きは驚くほどだった。以来、毎年麦畑をつぶし、植木畑を増やしていった。植木栽培への転換はどの家でも最初は迷ったようだ。したがって急激な変化は求めず、収穫の悪い畑から徐々に植木を植えていった。手慣れた麦作から植木栽培への全面転換には10年かかった。昭和40年代(1965~1974)の初めには植木だけの経営に変化し、現在では大麦・小麦を作付けている家は一軒もみあたらない。植木栽培は農業と比べて繁忙期が集中しないのでいい仕事といわれている。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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日本人の名前のルーツを探ることで日本の歴史を違う角度から見ることができます。家系図づくりをしている人・一族のルーツの探し方がわからない人・祖先の古いお墓がある人はもちろん、自分の名字・姓・氏の由来を知りたい人、家紋や戸籍謄本(除籍謄本)に興味がある人、先祖が武士か農民か知りたい人、珍名・奇名など珍しい苗字を探している人、明治時代好きの人も読んでみてくださいね。家族や親戚との話のネタにもなります。他人の名字でも起源を調べると面白いことがたくさん出てきますよ。調べ尽くしたら苗字研究家に転職できるかも? 苗字の歴史って楽しいです。異説・新情報がありましたら教えてください。

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