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奥州の佐藤氏・7

 基治の弟師泰の子孫は庶流として信夫地域に居住していたが、南北朝の内乱期に佐藤十郎左衛門尉清親が出た。建武5年(延元3、1338)に佐藤十郎左衛門入道性妙を称し、武家方(北朝方)として働いた。暦応2年(1339)3月に石塔義房の軍勢催促状を受けて本吉庄へ一族を率いて軍功をたて、暦応4年(1341)1月に石塔義房から岩切城の留守警固を命じられ、康永3年(1344)には石塔義元が性妙の軍忠状を受けて軍忠の旨を幕府の執事である高師直に具申し足利尊氏への披露を願いでた。貞和2年(1346)1月、性妙はこれまでの軍忠を管領府に具申し、遅延している恩賞を早く実現してほしいと訴えた。以上のことより信夫佐藤氏の惣領が佐藤十郎左衛門入道性妙だったとわかる。
 信夫佐藤氏は鎌倉時代を通じて隣郡の仇敵伊達氏の勢力に圧倒されていた。しかし頼朝の奥州征伐から一世紀半を経て起こった南北朝の動乱を利用し、南朝方となった伊達氏に対して、武家方に属して一気に勢力を回復しようと考えたようだ。大鳥城は石那坂の戦いで落城していたが、南北朝期まで整備・拡張されて使用されていたとも考えられている。
 十郎左衛門入道性妙は子息一族とともに奥州の各地から、伊勢国小屋末・摂津国天王寺(大阪府天王寺区)・阿倍野(大阪府阿倍野区)・港川・播磨国山田荘(兵庫県神戸市北区山田町)・丹生寺(兵庫県神戸市北区山田町坂本)・谷上(兵庫県神戸市北区山田町谷上)・諏方瓦などの合戦に軍忠した。
 文和元年(1352)ころになると性妙・元清父子の信夫地方における史料はみえなくなる。一志郡における所領預かりを画期として、本拠を陸奥から伊勢に移されたと考えられる。元清の兄重清も康安元年(1361)伊勢国鷹屋に所領を与えられている。
 父入道性妙とともに転戦した佐藤兵庫介行清は、伊勢に本拠を移してからも北朝方に属した。足利方の武将である仁木氏に従い、文和2年(1352)に一志郡三雲村肥留に領地を得て、佐藤館を築いた。行清の弟基清(元清)は永和2年(1376)重代の文書ならびに系図・太刀などを幼い清基に譲った。これが、いまに伝わる「佐藤家譜」である。譲られた系図からも佐藤氏の本領が信夫庄だったことが知られる。子孫はいまも肥留に存在している。
 性妙一族は伊勢に新天地を得て信夫を去っていった。信夫佐藤氏は各地に移り去りはしながらも、なお多くは信夫地方に根を張りつづけた。相馬氏・佐竹氏に仕え、幕末には白河藩の代官になった。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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日本人の名前のルーツを探ることで日本の歴史を違う角度から見ることができます。家系図づくりをしている人・一族のルーツの探し方がわからない人・祖先の古いお墓がある人はもちろん、自分の名字・姓・氏の由来を知りたい人、家紋や戸籍謄本(除籍謄本)に興味がある人、先祖が武士か農民か知りたい人、珍名・奇名など珍しい苗字を探している人、明治時代好きの人も読んでみてくださいね。家族や親戚との話のネタにもなります。他人の名字でも起源を調べると面白いことがたくさん出てきますよ。調べ尽くしたら苗字研究家に転職できるかも? 苗字の歴史って楽しいです。異説・新情報がありましたら教えてください。

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