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奥州の佐藤氏・4

 文治元年(1185)10月17日、義経と頼朝が対立し、京都の義経の屋敷に頼朝からの刺客である土佐坊昌俊が差し向けられた。義経は屋敷に残った僅かな郎党の中で忠信を伴い、自ら門を飛び出して応戦している。
 11月3日、忠信は都を落ちる義経に同行する。12月、義経一行が大和国の吉野山で襲われたとき、忠信は横川法師覚範から義経を守り撃退した。しかし九州へ向かう船が難破して一行は離散した。忠信は宇治の辺りで義経と別れ、都に潜伏した。文治2年(1186)9月22日、人妻であるかつての恋人に手紙を送ったことから鎌倉の御家人・糟屋有季に居所を密告され、潜伏していた中御門東洞院を襲撃される。忠信は奮戦したが多勢に無勢で郎党2人とともに自害して果てた。
 室町時代初期に書かれた『義経記』での忠信は、義経の囮となって吉野から一人で都に戻って奮戦し、壮絶な自害をする主要人物となっている。『義経記』の名場面から歌舞伎や人形浄瑠璃の演目として名高い「義経千本桜」の狐忠信こと源九郎狐のモデルになった。
 『源平盛衰記』によると享年は26だが、佐藤氏の菩提寺である医王寺の忠信の石塔には享年34とある。子の義忠の年齢(このとき14歳)などを考慮すると34歳で没したと考えた方が辻褄があう。したがって継信も36歳で没したと推測される。
 佐藤氏の菩提寺である医王寺には佐藤継信・忠信兄弟が奉ってある。継信・忠信の墓は「粉にして飲むと体が強くなる」という言い伝えにより薬として利用され、石塔の半分ほどが大きく削り取られている。武蔵坊弁慶の「笈」(福島県重要文化財)とされるものや、継信所用とされる「鞍」(福島市重要文化財)も残されている。敷地内には、継信・忠信の母乙和御前の悲しみが乗り移って、花が咲く前につぼみが落ちるという「乙和の椿」がある。
 田村神社(宮城県白石市斉川上向山115)の伝承によると、継信の妻は関東川越太郎の娘で名は楓、忠信の妻は相馬小高城(福島県南相馬市小高区小高字古城)の城主行方五郎の娘で初音といった。継信・忠信の妻たちは息子2人を失って嘆き悲しむ老母(乙和御前)を慰めようとそれぞれの夫の甲冑を身にまとって雄姿を装って見せたという。この逸話は婦女子教育の教材として昭和初期まで国定教科書に掲載された。田村神社の社伝によれば、文亀年間(1501~1504)に佐藤左衛門亮信治(継信の末裔)によって建立されたと伝えられる。神社の境内には甲冑堂があり、堂内には楓・初音の甲冑木造がまつられている。初音の出身とされる小高城は嘉暦元年(1326)築城だが、12世紀にはこの地に行方氏が住んでいたとの話もある。
 歴史学者の角田文衛によると、佐藤一族の熾烈とも見える義経への忠節は当時としては珍しく、君臣の関係だけでは説明がつきにくいため、義経の平泉時代に迎えた妻は佐藤基治の娘とする説を唱えている。飯坂の佐藤氏系図のひとつにも「基治女・浪の戸(源義経側室)」とある。
 なお佐藤氏の本拠地福島市飯坂では医王寺における佐藤一族の法要の主催者を家の当主(佐半殿と呼称)としている。首相岸信介、佐藤栄作兄弟の実家の長州藩士佐藤家は忠信の末裔を称している。
 源義経は奥州に落ちのびると真っ先に大鳥城へ来て、継信の命を奪った矢先などの遺品を基治夫婦に渡して慰めた。義経は継信・忠信の母や奥方には申し訳ないと頭を下げ、息子たちに自分の名を授ける(継信の子の義信、忠信の子の義忠の「義」)などして優しい一面を見せている。
 藤原泰衡は源義経を謀殺して源頼朝に服従の意思を示したが、鎌倉幕府による全国統治を進める源頼朝は謀反人源義経をかくまったとの理由で、文治5年(1189)に奥州藤原氏を討伐するため鎌倉を出立した。軍勢は3分割し、頼朝は宇都宮から白河関をとおる奥州街道(律令時代の東山道)を、比企能員・宇佐美実政軍は越後国から出羽国の北陸道を、千葉常胤・八田知家軍は常陸国から浜街道沿い(律令時代の東海道)を進み、平泉の藤原軍を包囲した。『吾妻鏡』によれば、騎馬武者では先陣の畠山重忠はじめ1,000騎を従え、歩兵や輸送要員を加え、道中では各地の豪族を加えた。推定される兵力は25,000以上とも280,000ともいわれる。
 藤原軍は防衛線を伊達郡と刈田郡(宮城県白石市)の境として、厚樫山(福島県伊達郡国見町辺り)の山麓から阿武隈川に至る長大な堀に阿武隈川の水を引き、総延長3kmにおよぶ三重の防塁(阿津賀志山防塁)で大要塞を築いた。総大将は泰衡の異母兄である西木戸(錦戸)太郎藤原国衡で、金剛別当以下兵力は20,000とも170,000ともいわれる。泰衡は陸奥国国分原(仙台市)鞭楯に本陣を置き、名取川・広瀬川などの川底に縄を巡らせ、要所に兵を配置した。秋田致文を出羽国に派遣して出羽方面の指揮を統括させ、鎌倉軍の来襲に備えた。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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日本人の名前のルーツを探ることで日本の歴史を違う角度から見ることができます。家系図づくりをしている人・一族のルーツの探し方がわからない人・祖先の古いお墓がある人はもちろん、自分の名字・姓・氏の由来を知りたい人、家紋や戸籍謄本(除籍謄本)に興味がある人、先祖が武士か農民か知りたい人、珍名・奇名など珍しい苗字を探している人、明治時代好きの人も読んでみてくださいね。家族や親戚との話のネタにもなります。他人の名字でも起源を調べると面白いことがたくさん出てきますよ。調べ尽くしたら苗字研究家に転職できるかも? 苗字の歴史って楽しいです。異説・新情報がありましたら教えてください。

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