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奥州の佐藤氏・3

 『源平盛衰記』や『平家物語』巻11に屋島の戦いでの継信の最期の様子が記されている。
 義経が「日が暮れようとしている。夜陰の戦いは憚りがある。いまの敵は名ある者どもである。列なる者ども、一揉み揉んでやろう」と言って席を立つと、土肥次郎実平は「若者どもに任せ給へ」と言って義経を本陣に留め置き、実平を先頭に子息弥太郎遠平・畠山庄司次郎をはじめ、一騎当千の者ども五十余騎が轡をそろえて駆けでた。
 平家は歩立だったので、芝築地から打ちでて馬上を射った。なかでも王城一の強弓精兵である平教経の矢先にまわる者で射落とされない者はなかった。平教経は義経を一矢で射落とそうと狙った。源氏の兵は馬上から矢を射った。追いつ追われつ、入れ替わり射合った。
 流れる血は砂を染めた。源氏の手負は肩にのせられて陣へ運ばれ、平家が討れると舟に運ばれた。常陸国住人鹿島宗綱・行方六郎・鎌田光政をはじめ、十余人が討れた。平教経の射った矢に武蔵国の河越三郎宗頼が射貫れる。次に片岡兵衛経俊は胸板を射られ、次に義経の乳母子、奥州佐藤三郎継信は首の骨を射貫かれ、真逆さまに落ちた。平教経の童(小姓)の菊王丸が太刀を抜いて継信の首を取ろうとしたが、弟の佐藤忠信の矢が菊王丸の腹巻を射貫いた。
 忠信の郎党八郎為定は小長刀で菊王丸の首を取ろうとしたが、平教経は菊王丸の頸を取られまいと菊王丸の手を取って船に放り入れた。忠信はこの間に継信を肩に引っ掛けて陣に戻った。
 義経は急いで馬から飛び下りて継信の手を取り、「この世に思い置くことはないか」と尋ねた。継信は息苦しげに「弓矢を取る身の習なり、敵の矢にあたって主君の命に替るは、かねて存ずる処なれば更に恨みに非ず、平家を討ち亡すところを見ることができないことこそ残念である」と言い残して息絶えた。
 義経は鎧の袖を顔に押し当ててさめざめと泣き、近くに僧がいないか探させた。見つかった僧に大夫黒という鵯越(一ノ谷の合戦で義経が平家奇襲の際に越えた難所)を行なった名馬を賜わり、継信を供養させた。忠信をはじめ、これを見た侍たちは皆涙を流し、「この主君のためなら、命を失うことは露塵ほども惜しくはない」と述べたという。
 以上のように『平家物語』で継信は平教経が義経を狙って放った矢を身代わりとなって受けて戦死したとされているが、『吾妻鏡』では平教経は一ノ谷の戦いですでに戦死したことになっている。
 『吾妻鏡』元暦2年(1185)2月19日の条によると、義経は継信の死を非常に嘆き悲しみ、一人の僧侶を招き千株松の根元に葬った。御幸供奉のときに後白河院から賜り、毎回戦場で乗っていた名馬「大夫黒」を僧侶に与えた。『吾妻鏡』は「戦士を慈しむ手本である。美談としない者はない」と書いている。
 『源平盛衰記』によると享年は28だが、佐藤氏の菩提寺である医王寺(福島県福島市飯坂町平野寺前45)の継信の石塔には享年36とある。高松市牟礼町洲崎寺に継信と大夫黒の墓がある。
 『吾妻鏡』によれば壇ノ浦の合戦の後、元暦2年(1185)4月15日に義経が無断で官職を得て頼朝の怒りを買った際、四郎忠信も左兵衛尉従六位下に任官した。頼朝から「秀衡の郎党が衛府に任ぜられるなど過去に例がない。身の程を知った方がいいだろう。その気になっているのなら猫にも落ちる」と罵られている。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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日本人の名前のルーツを探ることで日本の歴史を違う角度から見ることができます。家系図づくりをしている人・一族のルーツの探し方がわからない人・祖先の古いお墓がある人はもちろん、自分の名字・姓・氏の由来を知りたい人、家紋や戸籍謄本(除籍謄本)に興味がある人、先祖が武士か農民か知りたい人、珍名・奇名など珍しい苗字を探している人、明治時代好きの人も読んでみてくださいね。家族や親戚との話のネタにもなります。他人の名字でも起源を調べると面白いことがたくさん出てきますよ。調べ尽くしたら苗字研究家に転職できるかも? 苗字の歴史って楽しいです。異説・新情報がありましたら教えてください。

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