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伊藤氏のルーツ・9

 工藤氏の始祖がかつて大和郡山を領していたので祐長が安積に来てから地名を郡山にしたという説がある。工藤氏の祖は大化の改新(645)を始めた藤原鎌足としていて、祐長の時代まで600年ほどの間がある。『太平記』に安積伊東は大和守の前司とあり、600年の間に工藤氏が大和郡山に住んでいた時期があったことは考えられる。「舊事記」に伊東氏ははじめ大和国郡山を領したとある。文治5年(1189)に藤原泰衡が亡んで伊東氏に安積郡を賜ったので本国の郷名をとって郡山を号したという。伊東祐長は稲荷館(郡山城)に移ってからこの地を郡山し、氏にも称した。『相生集』によると永享年中(1429ごろ)、伊東氏が横塚(福島県郡山市横塚)から移って郡山と改めたという。
 工藤氏が最初に郡山に入ったのは片平町の可能性がある。第一に、伊豆関連の地名・神社がこの辺りに集中していることにある。片平に大宮権現があるが、大宮権現は伊豆・箱根・三島の三神を祀っていて伊東家の氏神であるという。『郡山の地名』には『片平が鎌倉時代から戦国時代にかけて支配していた安積伊東氏の直轄地』とある。片平町に城塞関係の地名として残されているものに上館・中館・下館・西戸城・東戸城・門口・館堀・外堀・新堀・的場・馬場下、寺町を示唆する寺下(いまでも三ヶ寺・常居寺・岩蔵寺・広修寺が集中している)などがある。
 第二に、片平城の規模が大きいことである。『会津・仙道・海道地方諸城の研究』には、次の記述がある。伊東と伊藤が混在しているが理由は不明である。姓はそのまま引用したもので、間違いではない。

 郡山市片平と字舘西との中間丘陵上にある平舘である。郡山西北約十粁に当る当館は伊東家本宗累代の居館である。伊東氏は何時の頃より当地に居住したかは明らかでない。寛永書上館基考等に依れば「片平は伊藤祐長の嫡流大和守之れに居る。而も所領追々一族に分配し其の身小身となり、(中略)片平は安積郡中の著村にて伊東氏代々の鎮守伊豆箱根三島の三社を勧請し、厳然として今に存す。片平氏は安積伊東の一族である。仙道記に「片平城主伊東大和守と申は工藤左衛門祐経、文治五年泰衡退治の節比類なき働仕安積郡一国安達の内宛行われ、其の身は伊豆国に住し次男伊藤六郎左衛門助長、安積郡に入部し片平の城に住す。依て安積六郎祐長と改む」
 安積伊藤の族なるべし仙道雑記に片平村城主伊藤大和守と申すは、工藤左衛門祐経の次男 伊藤六郎左衛門助(祐)長の後なりと。下って応永十一年七月の連署起請文に伊東下野七郎藤原祐持など見ゆ。その後裔に伊東摂津守あり、郡山城に拠る、その子 太郎左衛門尉、郡山を称号とし、子孫仙台に有り。同郡片平に大宮権現あり。

 『吾妻鏡』で最後に祐長が出てきた建長6年(1254)の記述には『将軍家御行始めの儀有り。申の一刻相州の御亭に入御す。御引出物例の如し。中務権の大輔家氏御劔を持参す。砂金、羽、御馬』とあり、多くの供奉人(布衣、下括り)の一人として参加している。この年、伊東祐長は死去したが、これについて『吾妻鏡』に記載はない。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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日本人の名前のルーツを探ることで日本の歴史を違う角度から見ることができます。家系図づくりをしている人・一族のルーツの探し方がわからない人・祖先の古いお墓がある人はもちろん、自分の名字・姓・氏の由来を知りたい人、家紋や戸籍謄本(除籍謄本)に興味がある人、先祖が武士か農民か知りたい人、珍名・奇名など珍しい苗字を探している人、明治時代好きの人も読んでみてくださいね。家族や親戚との話のネタにもなります。他人の名字でも起源を調べると面白いことがたくさん出てきますよ。調べ尽くしたら苗字研究家に転職できるかも? 苗字の歴史って楽しいです。異説・新情報がありましたら教えてください。

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