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伊藤氏のルーツ・8

 建保元年(1213)、鎌倉幕府の成立に貢献して侍所初代別当となっていた和田左衛門義盛は、北条氏と対立した。
 2月16日、僧阿念房の自白により、各地で和田一族の関係者が捕らえられた。『吾妻鏡』のこの日の項に伊東六郎祐長が初出する。捕らえられた和田一族のうち、和田四郎左衛門尉義直を預かった。

  和田四郎左衛門尉義直(伊東六郎祐長これを預かる)
  和田六郎兵衛尉義重 (伊東八郎祐廣これを預かる)

 伊東八郎祐廣は伊東祐長の次男か四男(末子)と推測される。系図等を参考にすると祐長の次男が薩摩八郎左衛門祐氏とあり、四男が薩摩十郎左衛門尉祐廣とあるからである。
 建保元年(1213)5月2日酉の刻、北条氏に挑発された和田一族は蜂起した。『吾妻鏡』の翌3日の項に『和田四郎左衛門尉義直、伊具馬太郎盛重が為に討ち取らる』『義盛以下の首を取り聚む』とあり、和田合戦は2日で終わった。ただ、祐長が身柄を預かったはずの和田四郎左衛門尉義直はこの日の戦いで戦死している。祐長は和田四郎左衛門尉義直に逃げられたのだろうか。
 『郡山の歴史』によれば、一般的に、安積郡は奥州合戦の功により工藤祐経(祐長の父)が賜ったとされている。しかし『吾妻鏡』には工藤祐経が安積郡を賜ったとする記載はない。和田合戦の功により伊東祐長が安積郡を賜ったとする伝えもある。
 工藤祐長はいつ郡山へ来て、いつ伊東に姓を変えたのか、具体的な文献はない。『吾妻鏡』では伊東・工藤・伊藤・安積の姓が錯綜しており、何代か前には狩野姓も使用されている。祐長が郡山に入ってから伊東姓に変えたという説には疑問がある。
 『吾妻鏡』の3月17日の項には『和田平太胤長陸奥国岩瀬郡(福島県須賀川市あたり)に配流せらる』と記されている。5月9日の項に『和田平太胤長、配所陸奥国岩瀬郡鏡沼南の辺に於いて誅せらる』とあり、祐長が和田四郎左衛門尉義直を安積で預かったことを示唆しているのかも知れない。
 老人物語にも『工藤右衛門祐経、初めて奥州安積を始め、田村の内、鬼生田村などを領す。嫡家伊東大和守祐時、嫡流たるにより伊豆に住す。これ日向伊東の先祖なり、次男祐長、安積伊東の祖なり』とあるという。
 『吾妻鏡』によれば祐長は頻繁に出仕しており、郡山に永住していたとは考えにくい。祐長の生年は承元2年(1183)と推定されており、

   承元2年(1183)~建暦3年(1213)    30年間
   建暦3年(1213)~建保7年(1219)    6年間
   建保7年(1219)~嘉禄3年(1227)    8年間
   嘉禄3年(1227)~嘉禎2年(1236)    9年間

 という長期の4回の空白がある。この期間のうちの何年間かは郡山に住んでいた可能性がある。
 伊東祐長が郡山へ着任する際に出生地の伊豆から神を伴ったり、姓や地名を変更したのは、望郷の念や工藤一族を守護してくれる神と考えたからに違いない。しかし郡山在来の人々を治める手段としても宗教を利用したのだろう。
 郡山の北東8kmの田村郡三春町に臨済宗の福聚寺がある。副住職・玄侑宗久氏によると伊東祐長が郡山に入り最初に宿泊したところが福聚寺だったという。昔、福聚寺は郡山の北4kmの日和田町8丁目字聖坊の高台にあったという。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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日本人の名前のルーツを探ることで日本の歴史を違う角度から見ることができます。家系図づくりをしている人・一族のルーツの探し方がわからない人・祖先の古いお墓がある人はもちろん、自分の名字・姓・氏の由来を知りたい人、家紋や戸籍謄本(除籍謄本)に興味がある人、先祖が武士か農民か知りたい人、珍名・奇名など珍しい苗字を探している人、明治時代好きの人も読んでみてくださいね。家族や親戚との話のネタにもなります。他人の名字でも起源を調べると面白いことがたくさん出てきますよ。調べ尽くしたら苗字研究家に転職できるかも? 苗字の歴史って楽しいです。異説・新情報がありましたら教えてください。

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