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伊藤氏のルーツ・3

 『曽我物語』によれば、源頼朝は14歳で伊豆国へ流罪となり、在地豪族だった祐親の監視下で日々を送っていたが、祐親が大番役で上洛している間に祐親の三女八重姫と通じ、千鶴丸という子をもうけた。安元元年(1175)、祐親はこれを知ると平家の怒りを恐れて千鶴丸を松川に沈めて殺害し、頼朝の暗殺も図った。しかし頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた伊東祐清が頼朝に危険を知らせ、頼朝は夜、馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げこみ、北条時政の館に匿われて事なきを得たという。
 八重姫と千鶴丸に関する記述は虚構の多い『曾我物語』のみで、頼朝の流人時代を記した史料はなく、伝承の域を出ない。ただし『吾妻鏡』の治承4年(1180)10月19日条、寿永元年(1182)2月15日条に、安元元年(1175)の9月ごろ、祐親が頼朝を殺害しようしたところを次男祐清がそれを告げて頼朝が走湯権現(伊豆山神社)に逃れたことや、挙兵後の頼朝に捕らえられた祐親が恩赦によって助命されるところを「以前の行いを恥として」自害したことが記されており、頼朝と祐親の間には因縁が認められる。
 葛見庄は家次の次男で、祐家の弟祐継が治めていた。祐親は自分が伊東氏の嫡流だと考えていたので、祐継から葛見庄を略奪し、伊東庄に移って伊東を名乗った。河津庄は子の河津三郎に治めさせた。
 祐継の子に工藤祐経と工藤祐茂がいた。工藤祐経は京の大宮御所で平重盛を烏帽子親(後見人)として元服し、20年以上皇室の武者所の守護についていたので中央政治と地方の軍事情報に精通していた。恩人の平重盛が死ぬと平家朝廷は従兄弟の伊東祐親と利権で密着し、愛妻の万劫御前を祐親に取り返されるなど、祐経には憂鬱な時期がつづいていた。伊東家(工藤・狩野)は歴代源氏の家臣だったので、源頼朝の旗揚げにあたり叔父狩野茂光と弟宇佐美祐茂の仲介で頼朝と面会し、源頼朝のもとに馳せ参じた。
 『吾妻鏡』における祐経の初出は元暦元年(1184)4月20日の項の「工藤いちろう一臈祐経」である。一臈とは武者所の上級職である。ある儀式において『工藤一臈祐経鼓を打ち今様を歌う』とあり、源氏との強い関係を示唆している。有能さと情報力によって頼朝の信任は極めて厚く、頼朝=祐経体制と評されるまでになった。
 平清盛は保元の乱(1156)や平治の乱(1159)を征して朝廷の権力を手中にし、源氏を倒して「平家にあらざれば人にあらず」といわれるほどの権勢を誇った。しかし平清盛の死後、多くの源氏の遺児と家臣団が立ちあがり、寿永・元暦年間(1182~1185)に一ノ谷・屋島・壇ノ浦で決戦した。悲劇的な運命の安徳天皇を巻き添えに、平家一族は滅亡した。
 文治2年(1186)、源氏の氏神である鶴岡八幡宮の落慶と平氏撃滅の戦勝を記念した祭りで静御前が頼朝に呼びつけられ、舞を演じさせられた。ここでも工藤祐経は鼓を奏した。工藤祐経は武人ではあったが、文人としての素養も深かったと思われる。
 文治5年(1189)7月19日、頼朝軍は源義経を追って鎌倉を出立し、7月29日に白河関の関明神で戦勝を祈願して奥州に入った。8月7日、頼朝軍は阿津賀志山(福島県伊達郡国見町)で平泉勢を破り、9月には平泉の攻撃をはじめた。『吾妻鏡』には工藤祐経の他に一族で付き従ったと思われる人たちの名が記載されている。

   土肥次郎實平 土肥彌太郎遠平 工藤庄司景光 工藤小次郎行光 工藤三郎助光
   狩野五郎親光 曾我太郎祐信 宇佐美三郎祐茂 工藤左衛門尉祐綱 工藤三郎祐光

 頼朝軍は奥州合戦(1189)で義経と結んだ奥州藤原氏を倒した。源頼朝は文治5年(1189)に鎌倉幕府を興して総地頭となり、奥州地方は鎌倉武士たちに恩賞として配分された。

 白河=結城  岩瀬=二階堂  安積=伊東  安達=小野田
 会津=佐原(葦名) 南会=河原田  宇田=相馬氏  伊達=中村(伊達氏)

 田村氏・石川氏・佐藤氏(福島)の三氏にはそのまま本領が安堵された。工藤祐経には源平の合戦や奥州征伐の功として、日向国の地頭職・陸奥国鞭指庄など24ヵ国に所領3,800余町を与えられた。『姓氏家系大辞典』に「祐經彌威勢重く成りて、大将殿より日本国中に所領宛と約束にて、廿余ヶ国迄下し給わる」という記述がある。
 伊東と称した理由として『日向記』は「伊藤の『藤』を書き換えたのは、祐経の家が御所の東にあって、頼朝が「東殿」と呼んだので伊東と書かれるようになった」と伝えている。
 平成13年(2001)5月、工藤祐経逝去808年の記念として、伊東祐長の末裔という福島県郡山市西田町(旧田村郡)在住の方の発願により常居寺(福島県郡山市片平町)に「工藤祐経の墓」が建立された。祐経は直接郡山に足跡がないにもかかわらず、墓がつくられた。

テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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Author:asagiri
日本人の名前のルーツを探ることで日本の歴史を違う角度から見ることができます。家系図づくりをしている人・一族のルーツの探し方がわからない人・祖先の古いお墓がある人はもちろん、自分の名字・姓・氏の由来を知りたい人、家紋や戸籍謄本(除籍謄本)に興味がある人、先祖が武士か農民か知りたい人、珍名・奇名など珍しい苗字を探している人、明治時代好きの人も読んでみてくださいね。家族や親戚との話のネタにもなります。他人の名字でも起源を調べると面白いことがたくさん出てきますよ。調べ尽くしたら苗字研究家に転職できるかも? 苗字の歴史って楽しいです。異説・新情報がありましたら教えてください。

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