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伊藤氏のルーツ・12

【郡山城】福島県郡山市桜木町1-1
 築城時期は不明だが、天正年間(1573-92)に安積伊東氏一族、郡山太郎左衛門尉頼祐(朝祐?)が居城とした。
 郡山城は、もともとは郡山の古い地名である茶臼館にあり、館名も地名と同じ茶臼館だった。郡山城の北には逢瀬川、東には夜討川、西には水無川が流れこんでいる。小河川とはいえ三方を川に囲まれており、堅固な城だったとわかる。郡山城はいま見られるような小さな丘ではなく、富田町の大島辺りから並木・西の内・若葉町にまたがる大きな城だったことになる。伊東氏の主要な城だったと推察できる。
 郡山城の近くの「西の内」には三島神社が祀られている。郡山城や「西の内」に隣接して「幕の内」や「幕の外」という地名があり、さらに大島という地名につづいている。つまり三島神社は郡山城の敷地内を意味する「西の内」に伊東氏の守り神として勧請されたのだろう。
 本拠とされた市西部からだいぶ離れた郡山市街に郡山城や三島神社があるのは、祐長が来てある程度の時期が過ぎ、城を建設するだけの財政力がついてから構築されたからではないだろうか。
 応永11年(1404)7月の連署起請文に「伊東下野七郎藤原祐持」などが見られ、後裔には郡山の領主となった伊東摂津守がいる。子の伊東太郎左衛門尉は郡山を称し、子孫は仙台に住んだ。『会津・仙道・海道地方諸城の研究』によるとこの城は稲荷館と呼ばれた時期もあった。
 伊東一族の中では比較的勢力を維持していた郡山氏だったが、永禄年間(1558-1569)ごろには三春城主田村氏の支配下に置かれ、天正14年(1586)以降は伊達氏の支配下にあった。伊達氏が奥州仕置により安積郡を失うと、郡山氏も伊達家臣としてこの地を去っている。
 郡山城を巡る最大の合戦といえば郡山(夜討川)合戦だろう。天正16年(1588)、さきに小浜城・二本松城を攻め落として南進を図る伊達氏と、蘆名・佐竹・二階堂氏らの連合軍が、当時伊達氏の勢力下にあったこの城を巡って対立した。連合軍は郡山城を取り囲み、伊達勢は山王館に本陣を置いて夜討川を挟んで対峙した。伊達勢の数倍の兵力だった連合軍は徐々に伊達勢を圧迫し、郡山城と山王館の連絡は分断される事態に陥った。伊達勢は郡山城に籠もる伊東(郡山)太郎左衛門頼祐に兵糧・弾薬を送り、無理な戦闘を避けて時間を稼いだが、余裕はなくなっていった。
 伊達方の勇将伊東肥前重信は政宗に出陣を促し、討死を覚悟で政宗の身代わりを願い、政宗の馬印を掲げて乱戦の指揮を執った。乱戦の中、本陣に敵将が押し寄せ政宗に危機が及ぶと、重信は戦場より取って返して危機を救った。しかし重信も重傷を負い、馬上より落下してそのまま息絶えた。
 6月12日以降、40日間にわたって延々小競り合いが繰り返され、両軍ともに大規模な攻勢を仕掛けられなかった。伊達方からすれば、大崎・最上勢の進軍が停止して和睦交渉が始まったとはいえ伊達領北方では依然として予断を許さぬ状況がつづいており、大崎合戦敗北による痛手も癒えておらず、積極的攻勢に打って出られるような状態にはなかった。一方の蘆名方も、頼みの佐竹義重が豊臣秀吉から、前年12月の惣無事令に則して子・義広と甥・政宗とを速やかに和睦させるよう再三にわたり督促されており、公然と自らが兵を進めて政宗を討つわけにもいかず、様子見をつづけざるを得なかった。
 7月、北方で大崎合戦の和睦が成立して最上勢が撤退を開始すると、21日には蘆名義広も郡山城の攻略をあきらめ、石川昭光・岩城常隆の調停を受けて撤退した。合戦に辛くも勝利した政宗は自分の身代わりとなった伊東肥前重信の誠忠を全軍に賞揚し、子の重綱に桃生郡小野城を与えて報いたとされる。
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Author:asagiri
日本人の名前のルーツを探ることで日本の歴史を違う角度から見ることができます。家系図づくりをしている人・一族のルーツの探し方がわからない人・祖先の古いお墓がある人はもちろん、自分の名字・姓・氏の由来を知りたい人、家紋や戸籍謄本(除籍謄本)に興味がある人、先祖が武士か農民か知りたい人、珍名・奇名など珍しい苗字を探している人、明治時代好きの人も読んでみてくださいね。家族や親戚との話のネタにもなります。他人の名字でも起源を調べると面白いことがたくさん出てきますよ。調べ尽くしたら苗字研究家に転職できるかも? 苗字の歴史って楽しいです。異説・新情報がありましたら教えてください。

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