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和賀一揆・6

【二子城】 岩手県北上市二子町坊館86
 別名とばせ飛勢城。現在は市立公園飛勢城跡。
 北上平原の北側に2つの小山が並んで見えるので二子の地名が生まれたらしい。
 和賀氏の本城で、築城年代は不明である。室町時代以降、和賀氏は和賀郡総領職として郡内を治め、胆江地方や宮城・秋田の一部にも勢力を伸ばした。和賀氏の本拠地は、はじめ北上川の対岸の更木(現在の北上市更木町地区)にあったとされる(『邦内郷村志』)。二子城が本城となるのは15世紀半ば以降で、天正18年(1590)に豊臣秀吉の奥州仕置によって廃城となるまでの約150年間存在したと推定される。
 二子城の全体規模は南北約1,000m、東西約500mに及ぶ。中世和賀郡における最大規模の城館跡である。北側は北上川に面し、東側は沖積地、中央部から西側は段丘崖および丘陵である。

 東側の沖積地には「宿」と呼ばれる城下集落が形成されている。北東側には、北上川に面して城主の日常生活の場である古館(白鳥館)が存在し、周辺には家臣団の屋敷が配置されていたとみられる。
 二子城の中心部分である八幡神社境内は「飛勢の森」とも呼ばれ、沖積地からは70mの高さがある。規模は南北100m、東西70mで、西側に空堀が、東側には3~4段の腰郭が巡る。はじめは城主の日常生活の場として使用され、後に詰城(非常時に立てこもる場所)になったとみられる。

【岩崎城】 岩手県北上市和賀町岩崎
 岩崎城は室町時代の前後約400年間に渡って和賀地方を治めていた和賀氏一族の城で、本城である二子城に次ぐ規模を誇る。別名「和賀盾」とも呼ばれ、南北朝時代には岩崎おおい大炊が居住した。南朝方として活躍し、暦応4年(興国2・1341)には岩崎城で合戦があり、鬼柳清義が討死している。
 享禄4年(1531)、和賀氏と小田嶋党(秋田県仙北郡)との戦いには岩崎氏も参陣しており、天正9年(1581)の『和賀御分限録』には岩崎治部の名が残っている。天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置によって和賀氏の領地は取りあげられたが、慶長5年(1600)に和賀一族は岩崎城にたてこもって南部氏と戦った。一揆鎮圧後、岩崎城は南部家臣の野田・大槌・江刺・栗谷川ら諸氏によって修理され、慶長7年(1602)に南部家臣である柏山伊勢守明助が入城して伊達氏との藩境の警備にあたった。だが寛永元年(1624)に明助が死去した後は、嫡子明定・次子明信らも亡くなったため岩崎城は廃城となった。
 夏油川に沿ってのびる比高約20mの左岸舌状台地に位置し、その北側、山の麓にあたる城内という集落一帯を含む。約25,000㎡と広大である。内部は台地に沿って3郭で構成され、中央部が本丸にあたり面積は約5,000㎡で、現在は天守を模した岩崎公民館が建つ。南側には約15,000㎡の三の丸、北側には約2,000㎡の二の丸があるが、二の丸は夏油川に削られたものと思われる。各郭の周縁には高さ約2mの土塁が築かれていたが、三の丸以外はほとんど消失している。各郭は空堀で仕切られ、幅20m、高さ15mに達するところもある。
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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術



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Author:asagiri
日本人の名前のルーツを探ることで日本の歴史を違う角度から見ることができます。家系図づくりをしている人・一族のルーツの探し方がわからない人・祖先の古いお墓がある人はもちろん、自分の名字・姓・氏の由来を知りたい人、家紋や戸籍謄本(除籍謄本)に興味がある人、先祖が武士か農民か知りたい人、珍名・奇名など珍しい苗字を探している人、明治時代好きの人も読んでみてくださいね。家族や親戚との話のネタにもなります。他人の名字でも起源を調べると面白いことがたくさん出てきますよ。調べ尽くしたら苗字研究家に転職できるかも? 苗字の歴史って楽しいです。異説・新情報がありましたら教えてください。

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