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下田半兵衛・9

 幕末以降、田無地区では養蚕が盛んとなり、桑園の作付面積が拡大した。明治26年(1893)の桑園面積は57町5反3畝で、田無の土地所有者312戸のうち223戸が桑園を所有していた。昭和7年(1932)には74町となり、田無の古老に農業の話を聞くと異口同音に養蚕の話をするという。
 旧下田名主役宅が現在でも田無町2-10-8に残っている。これも西東京市指定文化財となっている。
 役宅は市内最古の民家で安政4年(1857)に建設された。役宅には安政4年(1857)4月21日に時の老中3人他幕閣重臣25人が、明治16年(1885)4月16日には近衛師団演習天覧のため飯能へ行く途中の明治天皇・伏見宮さだなる貞愛親王・北白川宮よしひさ能久親王が昼食をとるため立ち寄った。それに伴って明治16年に一部改築している。明治天皇は32歳だった。昼食後は青梅街道から田無用水の小さな橋を渡り、所沢街道へ出て飯能に向かった。小さな橋はその後「みゆき橋」と村人たちに呼ばれたという。
 当初の遺構の大部分は保存され、昔のたたずまいを残している。木造入母屋造三層(現在は二階建)の茅葺(昭和60年(1985)に銅版葺にする)である。『板橋史談』155号によれば、桁行12間、梁間5.5間の入母屋3層のつくりである。皮付き丸太の大引きは直径35cm、長さ5間のものもある。大黒柱は30cm角の欅材で、4間もの材をつかっている。当時の大工技術と工具の貴重な建築史料であるという。
 田無用水は下田半兵衛の屋敷内に引きこまれていた。道がクランク状に曲がったこの場所の付近には、地面を掘り下げて造られた地下室に、直径5m弱の大型水車(半兵衛水車)が設けられている。水車によって杵10本と臼1台分の労力を賄えた。向台公園内の西東京市郷土資料室(東京都西東京市向台町2-5)に水車の部分が展示されている。田無用水(暗渠)自体は西武新宿線のガード下を通って石神井川に至っている。
 この水車とは別に下保谷の田柄用水流域(西東京市富士町1-15)にも下田家の水車があった。田柄用水は田無用水から分水して練馬方面まで延びた農業用水で、明治初期に開かれた。『下保谷の民俗(保谷市史編纂委員会)』によると、古老聞き書きより「この辺の水車というと、南大泉の桜井水車といまの東伏見駅の北側の水車だった。後者は富士街道のところを新田の方から流れている用水にあった」とあり、これが下田家の水車だったと考えられる。主に雑穀につかわれ、搗臼は片側5~6個、両側で10~12個あったようだ。富士街道と新青梅街道の現富士町交差点手前で新青梅街道を渡り、東に迂回して再び富士街道沿いに戻る。古老によると水車は東隅にあったという。
 これ以降の下田半兵衛家の日々の暮らしなどについては『田無市史 民俗編』に詳しい。
 下田半兵衛の直系は現在、総持寺の檀家の総総代を務めている。
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Author:asagiri
日本人の名前のルーツを探ることで日本の歴史を違う角度から見ることができます。家系図づくりをしている人・一族のルーツの探し方がわからない人・祖先の古いお墓がある人はもちろん、自分の名字・姓・氏の由来を知りたい人、家紋や戸籍謄本(除籍謄本)に興味がある人、先祖が武士か農民か知りたい人、珍名・奇名など珍しい苗字を探している人、明治時代好きの人も読んでみてくださいね。家族や親戚との話のネタにもなります。他人の名字でも起源を調べると面白いことがたくさん出てきますよ。調べ尽くしたら苗字研究家に転職できるかも? 苗字の歴史って楽しいです。異説・新情報がありましたら教えてください。

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