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小野妹子

 おののいもこ・生没年不詳(5世紀から6世紀半ば)。
 飛鳥時代の政治家である。姓は臣。子に毛人・広人がいた。冠位は大徳冠。隋では大禮(冠位十二階の上から5番目の冠位)蘇因高と呼ばれた。
 系譜は明らかでなく、諸説ある。妹子は敏達天皇の皇子である春日皇子の子で近江国滋賀小野村に住んだので小野の姓をたまうという説と、近江国滋賀郡小野村(大津市)の豪族小野氏(天皇家と姻族関係をもっていた和珥(わに)氏の末裔)の出身という説がある。『日本書紀』雄略紀に登場する「春日小野臣大樹」の後裔で春日仲君(または仲若子)の子とする系図もある。春日仲君の娘(春日老女子)が敏達天皇の妃となり春日皇子を産んだことから、小野氏を春日皇子の系統に繋いだとも想定できる。
 小野村のあたりは標高1000mを超す比良山系を背後に控え、南北に広がるこの辺りは、当時は琵琶湖を見下ろす静かな集落だった。そこで生まれ育った二流氏族の青年が遣隋使節の大使を拝命した。『日本書紀』によれば推古15年(607)、推古天皇の摂政を務めていた聖徳太子の命により、第2回遣隋使として鞍作福利らと中国の隋に渡る。当時の飛鳥には、大陸の知識を身につけた有用な渡来系氏族の子弟も多かったと思われる。それなのに、無名に近い地方出身の男がいきなり大使に大抜擢された背景はよくわかっていない。妹子がよほど優れた能吏だったか、股肱の臣として聖徳太子によほど気に入られていたとしか考えようがない。大使としてそれなりの肩書きが必要なのは、今も昔も変わらない。妹子は大礼(だいらい)という冠位を授かった。4年前に制定された新しい冠位制度の上から5番目の冠位である。
 推古16年(608)に裴世清を伴って帰国、ただし煬帝の返書は帰路に百済において紛失し(紛失に関しては諸説あり、とても見せることが出来る内容ではなかったからであるとする説もある)、一時は流刑に処されるが、恩赦されて大徳(冠位十二階の最高位)に昇進した。翌年には隋への返書と裴世清の帰国のため、第3回遣隋使として高向玄理、南淵請安、旻らと再び派遣された。
 『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」には、大業3年(607)、隋の皇帝煬帝(ようだい)が激怒したことで有名な 「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)」との文言がある。国書を持参した者の名前の記載はなく、ただ使者とあるのみである。
 「華道の祖」とされることがあり、華道家元池坊の始祖と言われている。小野妹子が政界を引退してから、聖徳太子の死後、池のほとりに坊を建てて仏教修行し、聖徳太子の墓に花を供えていたのが華道の始まりで、その事にちなんで池坊という華道池坊の流派が生まれた。
 妹子の墓とされる場所は2ヵ所ある。ひとつは大阪府南河内郡太子町の科長神社(しながじんじゃ)南側の小高い丘の上にある。楕円状の小さな塚である。100段の石段を昇った山の中腹にあり、眺めがとてもよく、推古天皇陵や二子山古墳が真下によく見える。「いもこ」の名で土地の人に親しまれている桜や紅葉の名所である。もうひとつは、小野妹子公園(滋賀県大津市小野)そばの唐臼山古墳(からうすやまこふん)を小野妹子の墓とする説もある。唐臼山古墳南方の古墳(妹子の父の墓である可能性が指摘されており、大津市教育委員会は事前調査)は、現存しない。
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テーマ : 歴史 - ジャンル : 学問・文化・芸術



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Author:asagiri
日本人の名前のルーツを探ることで日本の歴史を違う角度から見ることができます。家系図づくりをしている人・一族のルーツの探し方がわからない人・祖先の古いお墓がある人はもちろん、自分の名字・姓・氏の由来を知りたい人、家紋や戸籍謄本(除籍謄本)に興味がある人、先祖が武士か農民か知りたい人、珍名・奇名など珍しい苗字を探している人、明治時代好きの人も読んでみてくださいね。家族や親戚との話のネタにもなります。他人の名字でも起源を調べると面白いことがたくさん出てきますよ。調べ尽くしたら苗字研究家に転職できるかも? 苗字の歴史って楽しいです。異説・新情報がありましたら教えてください。

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